昭和50年05月17日 朝の御理解



 御神訓 信心の心得
 「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」

 神様の御心であるところの教え、それを踏んで行くのが真の道だと思います 神様の教えは全部、私は神様のお心だと思いますね。ですから信心しておっても教えをいただかなかったり、又はその教えを行じてなかったら、信心はしておっても真の道を歩いていると言う事ではないのですから、真のおかげが受けられるはずありません。御教えは神様の御心です。そのお心をお心として行く生活、お心をお心として行じて行く生き方、それが信心修行なのです。
 それで今合楽で言われる心行という事は、もうそのまま神様の心を心として、行く事を愈々身に付けて行く修行に、一番最高の修行だと云う事が言えますですね。神様の言うならばお心を体して、その心に添い奉る生き方、それが真の教えを神の教えを聞いて真の道を歩いて行く事なんです。昨日は大分支部の御大祭で御座いました。何と申しましますかね、あちらの宅の方の神様のご神前に出るたんびに思んですけれども、折角神様の信心をさせて頂くならば、この位なそのう丁重な奉斎の仕方をさして頂いたら。
 素晴らしい、そりゃもう本当に素晴らしいですよね。もう驚くばかりに素晴らしいです。もうあれだけ形の事が出来ると言う事は私しゃ先ずなら、言うなら心も出来とるから出来るんだと思いますよ。一事に万事にそうですからね。ならまぁ是は手前味噌になりますけれども、皆合楽に来てまぁ隅から隅までまぁ行き届いた事だと、先日からお庭を百何十人の方達が見にみえました。
 お庭もさる事ながらもう御広前の隅々、所謂住の方の隅々まで、まあ兎に角まぁ立派だ、行き届いたとこう言われると云う事はです、お庭だけじゃありません。住だけじゃありません。御広前だけじゃありません。それはね言うならば、私くしの信心がそれだけきちっとしとるからだと言うても、実を言うたら過言ではないです。こう申しますとね、本当に手前味噌になります。慢心の様にも聞こえます。
 是はもう確かにそうです。もう綾部さんのなら御信心性格と申しますか、信心がやっぱあの様なきちっとした物があるからこそ、もう本当にそりゃ思うです。あちらのお神様の御部屋が出来とります、お家に。御自分のお部屋に続いて。もうそりゃもう本当に見事です。驚くばかりもうあそこにおっただけでおかげを頂くと思いますね。あそこおっただけで、やっぱり何時も拝まにゃおられまいと思う様なそういう雰囲気を持つ、言うなら折角信心させて貰うなら、奉斎させて貰うでも奉斎の仕方がね。
 あの位の出来る様なおかげを頂きたいと思います、ね。そりゃあぁたもう金が沢山あるけん、金にあかせてしてあると言いやぁそれまでです。なら皆さんがあの斎場の方で、御大祭が何時も御座います。何時もあそこで毎月、月の共励会はあるんです、支部の参りましてもそうでしょうが。とてもとても小さい教会で、小さいちゅが大きな教会でも勝つ事じゃありませんあれだけの事は。
 もう本当にお供え一つでも、勿論今度支部員の方達が、もうもうそれこそ真心を打ち込んでの御用だったと云う事ですかもう本当に、ですから最高の物が、ぎりぎり最高の物をと言った様な感じでしたよ。お供え物なんかでも。結局中心である綾部さんの信心だと思いますね。終わりましてそれからお説教、終わりまして御直会の準備が出来る間に、あちらの御霊様へのまぁお祭りが御座いました。勿論御親戚の方達ばっかりで御座いましたが、あちらのお父さんの霊様の式年が先日帰幽日にここでありまして。
 その時にそのう手落ちというかそのううっかりしておって、親戚に通知がしてなかった訳です。それでこちらでなさったけれども、ほんな内内の方達ばかりでしたから、昨日は所謂親戚の方達も皆んな、あそこに集まられての、親戚ばっかりでの所謂、又その祭りをなさったわけです。ですからね式年祭としての、お祭りではなかったですね。私がお知らせを頂く事から申しましても、もう私くしはもうその前に出らして頂いたらですね、あのう真っ赤な傘です。
 あのうお茶の時にあのう野立てなんかの時に使いますでしょう茶床の上にこう大きな傘を、大きな傘をさします、あの傘がのもうそりゃ偉大な、ああ云う傘の偉大な傘なんですよ、その傘がこう丁度傘を干した時の様に置いてあるんです。そのその下に霊様が立っておられる所を頂いたです。と云う程しに大きな云わば傘でした傘と言やぁ皆さんも此処で何時も頂かれる様に、安心と云う事なのですね。
 傘を持っとればね不安がない。例えば天候の事でも、例えどんなに曇って来て、さぁ降りゃせんだろうかと思う時でも、傘を持っておれば心配はない不安はないのですけれども。その傘が無いと少し曇って来ただけでも、さぁ降りはせんだろうか濡れはせんだろうかと、不安になります一時が万事そうなのです。ですから傘のお知らせはそのう安心と云う事です。この方の道は傘一本で開ける道じゃと仰るのはね。
 心の中に信心のかさを頂いたらね、安心のおかげを神様はそれだけ信ずる事の出きれるおかげを頂いたら、確かに傘一本でいい安心一つで開けるのがお道の信心です。だからお互い信心のギリギリの眼目と言うのはです、この安心を頂く事の為に信心をしておると言うても良いのです。所がちょっと曇って来るともう不安になる、ちょっと何かあるとさぁどうなるじゃろうか、と言うて取り越し苦労をする。まぁだ心の中に言うならば信心の傘を頂いてない証拠です。
 だからこそまぁこうして信心修行さして頂く事なんですけれどもね。その大きな傘がこう置いてある、そりゃこうやって立っておるだけではない、只こう干してある様にこうねしてあるけれども、大きな傘だもんですからその下であのう言うならば、ならどう言う事でしょうかね、昨日あの様なま言うならばぁま華麗と云う言葉が適当でしょうね、もう本当に麗しい華麗なお祭りでした。
 そう言うお祭りのご比礼に御霊様も浴しておられる。安心言うならば参加と申しますね、傘の下の事を傘下と言うね、例えば皆さんは合楽教会の傘下にある訳です、だからおかげで濡れんで済む、暑い思いをせんで済むとと言うおかげになって来る訳です。言うなら昨日の大分支部の綾部さんを中心にした所の、御大祭の傘下に私くし共も潤わして頂くと同時に、ならあちらの御霊様も矢張りその御比礼の傘下に居られると言う事を、お知らせ下さったんだと思わして頂いて。
 まぁ本当に有難い言うならこの大祭の御比礼に浴しておられる訳御先祖の御霊様も、ね。皆さんも一と度び言うなら神様の心が解らして貰い、合楽の生き方在り方を本気でね、現在合楽がどう言う所を信心の眼目として進んでおるかと、言う事が解ってその眼目に向って皆さんの信心が進んでおるならです、もう合楽と共にと云う心の安らぎが生れる筈です。合楽合楽、自分の内で自分の内と言うな生き方を心に、私くしは喜びも安心も生れないんだと思うんです。ね。
 所謂神の教えを基にして、真の道を段々ね解らして貰え、歩かせて頂いておる所にそう言うおかげに段々なって来る訳です。その事をあちらの神様にお届けをさして頂いておりましたら、御神願に頂いてそのお祭りが終わった後に、御親戚の方だけに聞いて頂いたんですけれども。御神前に出らして頂いたら、頂く事が惟も又偉大なですね、所謂山芋ですね、もう山芋のね橋が架かっとる。山芋大きなね。
 中に一つこうつんばっちゃる。橋の端の方に、そこをですね、まあ何と言うでしょうか。まあ踊った様にしてこの橋を渡っておる人達の様子です。それから私は思わして頂いたんだすけれどもね、まあ是はぁ親戚の方達、又は娘婿さん達やら、まだ本当に信心がありませんから、その人達にあのう信心の無い方達に対する、是は御理解と思いますがねと言うてこりゃ話した事でしたけれども。
 山芋と云うのはこう毛むじゃらになって真っ黒うして、強そうに見えるでしょうが所が実をいうたら、実にあれはもろいのです。是を例えばこう橋が架かってますね。此処をそれこそ歌った様に踊った様に調子に乗ってこうやって、登って行ってこの上を登ってこちらの方へ行った時には、この重みでこりゃもうちょっと折れてしまうでしょうね。もろいから是が信心の無い人達の姿だぞと教えて下さった様な思いが致しました。
 是は私くし共信心さして頂く者が、それこそ信心の無い人達の生き方と云う物を見とったら本当にハラハラする様な気が致しますね。今は調子がよい、お金も儲かり御座る。まあ健康でもある。神様やら仏様てんなんてんて、まあいうならばその無神論者の様な事を言うて、言うならば横着言いながら世渡りをしておる人達の姿だと思います。いつポロッと折れるやらね、それを私くしは昨日丁度あちらの日田の方へ麻生さんと云う大変大きな酒屋さんがありました。
 綾部さんのお導きでお参りして見えとられました。もう沢山何億という借金の為に、どうにもこうにも出来なくなられた。それでもうどうにも仕様がないから、金光様にお縋りして金光様のまぁ教えに基づいて行こうという生き方であった。もう毎日熱心に参って見えました。佐田さん当りのお商売の時分に、大変良い方でしたから、大変お世話になられた方でもあったから、佐田さん当りもお祈り添えがずうと毎日あってました。今でもあってます。が当時もやっぱりお祈り願っとられました。
 所が余りにもその所謂債権に責められると云うですか、借金にせめられて私くしがね、もう一と辛抱しなさい、もう一と辛抱しなさい、もうあんただから御本部にでも行っときなさいと私はこう言うたのに。もうその借金取りで苦しいなら一時ばかり御本部やらに行っときなさいちね。甘木の平田さんがああいうおかげを受けられたのは、もうどうにもこうにも出来ん。甘木の親先生に自決いたしましょうか、満州へ逃げましょうかというてお届けされたそうです、一番どんこん出来ん時に。
 そしたら満州にも行くな、自決もするな、御本部に行けと仰った。だから言わば御本部に言わば逃げちゃった訳です。その間に世の中がもうそれこそ急転直下こう変わってそして、大変な財を得られて。ああいう大きな仕事が出来られる様になった訳です。私は麻生さんにも、その事極まあー言いましたけれども、なか々出来ませんでした。それこそもうどれだけあるか解らん位な山を持っておられる。あったんです。それこそそこの麻生さんの所、麻生さんと云う方は養子でしたが。
 お父さんと云う方はもうそれこそ、この爪にそれこそ明かりを灯す様にして、貯めあげられた方です。沢山の財産を作られたけど、それこそあのう引っ切り下駄でも、こうやってゴミ箱から拾うて来てから薪ものの所に持って行きなさる様に始末倹約なさった方。だからその全然そういう借金のある事をお父さんは知られなかった。御養子の麻生さんだけが、それを知ってあった。そして一人でもう兎に角抜き差し出来ない様な所もになって、結局倒産された。
 そしてその時にゃもう、山が一番山が値段が下がっとる時でした。ですからそのう何億というそれをされたけれどもまぁだ足らなかった。全財産を打ち振られたけれども足らなかった。勿論家、蔵、財産というな本当に家、蔵、財産を全部を当てられたけれども、借金がそれで満たない様な事でした。それから半年しましたらこんだぁ山がですね、もうそれこそ大変な値上がり致しました。そしてそれこそ山を売っただけでもまだ、一と財産残る程しの事でした。
 親先生が言うておった通りにしとったらと、言われたけれどもう後のまつりでしたね。例えばならこういう麻生さん達の生き方、如何に親がですねそれこそ血の出る様な働きをして貯めた金でもです、もうそれこそなら麻生酒造というお酒屋さんが潰れた時にはアッという間でしたよ。ね。丁度山芋の橋を渡って居る様なもんです。是が信心のない人達の姿です、その事を皆さんが知っておられますから、その事も例に申しました事でした。昨日綾部さん所でね。
 だから如何に今はとても堂々と立派にやって行きよると云うても、この山芋の橋を渡っておる様なのが、言うならば信心のない人達の姿ですから、こりゃもう実に今日の御理解じゃー無いけれども、神の教えも、真の道も知らぬ人の哀れさでしょうが。私くし共感じます。信心の無い人達の本当にあの姿と云う物は、何時どこでおしまいになるか解らない様な事が、所謂先の事が解らんのが、信心のない人の姿です。
 安心がないのです先の方には。だから私くしはその山芋の橋の様な、橋を渡るのではなく如何に頑丈そうに見えても山芋と云うのはもろいね。見た目には真っ黒うして髭があって、強そうにしとるけど実をいうたらもろいです。だから信心さして頂くものは日々こうしてお取次の橋を渡っておるのが信心のある人の姿です。ね。人間氏子の世界と神様の世界を取り結んである言うならば。
 この御結界という所は言うならばそう云う橋渡しをする所です。だからその橋渡しをしておるそれが言うならば神の教えです。皆さんの願いを神にお届けをする。そして神様が又皆さんに対する所の生き方を教えて下さる。言うならば氏子の願いを神様に持って行き、神様の願いを又皆さんに聞いて頂いとるのがこの御教えなんです。だからその御教えを聞いても、頂いても。
 それを行じ守らなかったら真の道を歩いておると云う事はいえんのです。真の道とはね神の心を心としての生き方ね、教えを守って行くと言う事が神の道であると同時に。真の道を歩いている姿なんです。どんなに見ても例えば信心のない人達の生き方と云う物はですね、此の様に哀れな姿はありません。その所を神様の言うならばお嘆き、神様の悲しみを此の様に表現してあると思います。
 ですから信心しょりますと言うだけではなくてです、神の教えも真の道もと仰る。神の教えを頂いて、その教えを行じて行く事こそ、真の道なのですからね、その真の道を私くし共が歩かないならば、信心はあっても矢張り哀れな事になります。哀れな事だと言えるのです。ね、神様を悲しましたはならん。神様に喜んで頂けれる信心、とは神の心を心としての生き方を身に付けて行く事であり、それが真の道を踏んで行くのだと私は思いますですね。
   どうぞ。